魅力いっぱいの佐世保の歴史について詳しく紹介します

佐世保市は、アメリカ海軍と自衛隊が駐留する都市であり、海軍と共に発展して来たイメージの強い年ですが、市内の岩谷口岩陰遺跡泉福寺洞窟から13,000年前の豆粒文土器や福井洞窟から12,000年前の隆起線文土器が発見されている事から旧石器時代終末期から人類が定着していたと考えられ、更に四反田遺跡などの開地遺跡の発見により、縄文時代の終末期から竪穴式住居や稲作が行われていたと考えられています。記紀によれば、初代神武天皇が即位した紀元前660年〜第12代景行天皇の治世紀元82年まで現在の市域周辺には大和朝廷に従わない久米人や蘇人、土蜘蛛や八束脛と呼ばれる豪族が複数存在していた事から何度も天皇や皇子により何度も東征が行われている地域とされていますが、大和朝廷にも劣らぬ勢力を有し独自の文化を育んで来た地域です。

有史以降明治維新までの歴史と変遷

佐世保市は、政治的改革大化の改新が断行されるまでは豊と呼ばれていましたが、第41代持統天皇に至るまでに豊が肥前国と肥後国の2つに分割されたとされ、701年の大宝律令以降市域は西海道に属する肥前国の松浦郡と彼杵郡として発展して行きます。平安時代の肥前国では、松浦地方を中心として松浦氏48血族からなる松浦四十八党が組織され、松浦四十八党は平家や源氏及び後鳥羽天皇、足利尊氏と時節を読みきり主君を変え続け、市域に相当する肥前国松浦郡と彼杵郡の一部と壱岐国を領有する平戸藩を手に入れます。平戸藩は、平戸往還を整備する事により領内で採掘される石炭や生成される塩などの瀬戸内海沿岸地域との交易を円滑にするだけで無く、早岐新田や大潟新田などの新田開発により領内の石高を嵩上げし明治維新を迎えますが、村自体は1000戸に満たない小さな村です。

明治維新以降の軍港都市としての歴史

明治維新以降、1886年に海上防衛の重要拠点として第三海軍区鎮守府が設置され、1898年の九州鉄道の駅の開業や1903年の海軍工廠の設置、1911年の海軍共済組合病院の開院など急激に都市機能が整備され、九州指折りの大都市へと急成長すると共に1902年に市政が施行されますが、市政に反対していた東彼杵郡佐世保村は1927年に市に編入されます。第二次世界大戦終戦後は、戦争の空襲による市中心部の焦土化や海軍解体などにより市の人口は大きく減少しますが、旧軍港市転換法による1949年の外国貿易港への転換及び貿易関連産業の隆盛や九十九島周辺地域の国立公園指定による観光業の振興などの市経済の基盤を整え都市再生を図ります。佐世保港は、民間の外国貿易港として再出発をしましたが、1950年の朝鮮戦争の勃発により港湾施設と水域は連合軍の補給拠点とし接収され、1961年以降のベトナム戦争では米軍兵士の後方安全地域に運用されるだけで無く、東西冷戦時の基地の強化などにより何度も再軍備された経緯があります。